世間話が出来ない。。。

世間話が出来ない。。。





私は世間話が出来ない」と言う話を書こうと思って、ちょっとネットで検索してみたら、同じようなことを悩んでいる人がたくさんいるようで驚きました。私だけじゃないんですね。

私は、所謂世間話ができません。同じ床屋に、20年以上も通っているのに、そこの店主ととろくに話をしたことがない。 昔、対人恐怖症で悩んでいる知り合いの高校の先生から、床屋に行くのが恐ろしいので、数か月に一度床屋に行って一遍に丸坊主をしてもらうという話を聞いたことがありましたが、私も恐怖を感じるほどではないけれど、やはり会話をするのが苦痛で、床屋に行くのを躊躇してしまうことがあります。でも、私の場合は、向こうも商売なのだから、お金を払いさえすれば、何も怯えることはないと居直ることにしております。(ある意味、それが一番正しい考え方でしょ?)




散髪はそうやってクリアしているんですけれど、困るのは、偶然に全然知らない人と鉢合わせた時。去年、はとバスに乗って、日光に行ってきたんですが、私のバス席の隣に座っていた、これまた一人で旅行していたおばちゃんと、どんな話をしたらいいかわからなくて、随分しんどい思いをしました。半日、隣に座っていたのに、私がほとんどしゃべらずに、スマホを弄っているので、向こうも気を悪くしたみたいでしたが、もう二度と会う事はあるまいから、それはそれでいいと自分に言い聞かせております。でも、後味悪いです。

「世間話が出来ない」という事は、結局世慣れていないという事なんでしょうけれど、私の場合、自分で自分の考え方が「世間」から随分ずれているという事が判っているので、これはもう居直るしかないのであります。

これは、心理学者岸田秀先生の受け売りなんですが、例えばアメリ
なんかで、何千万人のキリスト教原理主義者がいて、やれ「妊娠中絶は禁止しろ!」だとか、「学校で進化論を教えるな!」とか猛烈に抗議するのを知って、私たちからすれば「なんで、アメリカ人は、こんな不合理な考え方に捉われるんだろうか?」と不思議に思うやもしれませんが、ほかの民族の人から見れば、「何故、日本人は執拗に世間体を気にするのか?」と不思議に思うはずです。(事実、そう言う声がある。)
文化と言うものは、元来不合理なもので、その文化に馴染んでいる人は、その不合理性に気付かない。民族紛争だとかが、いつの世にもなくならないのは、おそらくそのせいでしょうね。

私の視点からすれば「世間」の不合理性は非常によく見える。だから私は「世間」に馴染めない。世間話もできない。そう居直るしかないのであります。