生活保護とパチンコ

生活保護とパチンコ




世間は実態であり、今でも世間のために死に追いやられる人もいる。平成6年(1994年)6月25日付の「朝日新聞」で報じられた例を思い出してみよう。左半身が不自由な妻が病弱な夫と暮らしていた。仲の良い夫婦であったという。二人は月に約6万5千円の生活保護を受け、それと妻の障害基礎年金年額74万円だけで暮らしていた。ところが近所の人たちから「おらたちの税金で食ってやがると言う陰口をきかれ、妻はそれを常に苦にしていた。「肩身が狭い」というのが妻の口癖になり、「私らは世間から相手にされないんだ」ともらしていた。世間の陰口に耐えられなくなった妻が別れ話を持ち出したために夫は妻を殺してしまったのである。裁判長は障害のある妻の暴行に耐えながら看護に手を尽くすなど同情を禁じ得ないとして、夫に懲役6年の判決を言い渡したという。
                   (「「世間」とはなにか」 阿部謹也著)

貧困者に対する同情は、いかにそれが熱烈で美しい言葉であらわされようとも、それは「あわれみ」でありその背後には優越感の満足があり、社会的責任は感じられないのであるから、実行力がともなわないのは当然である。(中略)こうしてみると、日本人の弱者(自分と関係のない)に対する態度はきわめて冷酷なものとなる。(中略)日本には、たとえ善意の寄付、援助をしたい人々がいても、習慣的にそれを容易に実行に移すシステムが社会の中にできていない。「もてる者」に「もたざる者」への援助を義務付ける思想もないのである。
                        (「適応の条件」 中根千枝著)
赤字は、猫さんです。


生活保護を貰って、遊んで暮らす。仕事はしないのに、パチンコはする。
そんな輩に、社会の非難が集まるのは当然だと私は思います。
厳しく取り締まるべきだと私も思う。
(私なら、そんな退屈な生活は送りたくないけれど。)
ただ、この種の議論がネットに展開されて、この問題に対する人々のコメントを読んで見ると、上の引用文章にある通り、私たちは弱者に冷酷な民族だなあと私はつくづく思うのであります。なんか、背筋が寒くなります。
「俺たちの税金で楽して暮らしてやがる」
と言うのが、生活保護受給者への人々の本音みたいですね。弱者へのノブレス・オブリージュ(高貴なるものの義務)は、殆どの日本人からは全く感じられません。自分たちのお金で楽をするのが許せないのなら、宝くじも廃止したらいいと思うのですが、誰もそんなことは言わない。(笑)
これは、前にも書きました様に、日本社会が伝統的に流動性の高い働き者の中産階級によって作られてきたせいでもあるでしょう。小泉純一郎さんだって、三代前のご先祖さんはとび職です。日本では、決して珍しい事ではありません。
イギリス
のような強固な階級社会で、名門大学を優秀な成績で卒業したマーガレット・サッチャーさんが、「雑貨屋の娘」という差別意識に悩まされたのとは全く事情が異なります。
私たちが、宗教に無関心なのも、健康である程度の能力があれば、そういうモノを信じなくても、実社会で希望を持てるからでしょう。

「働かざる者食うべからず」「弱者=怠け者」

勿論、働けるのに働かないでいる連中もたくさんいるでしょうが、中には病気等の理由で本当に働けない人も同様にたくさんいるのであります。そんな人たちの事は、どうでもいいのでしょうかね?