マーティン スコセッシ

マーティン スコセッシ(Martin Scorsese)


(1942― )




私は、S.スピルバーグより、この人の方が、

アメリカを代表する映画監督だと思うのですが、

おそらく、女性の方は敬遠なさる人が多いと思います。

なんといっても、暴力描写が凄まじいから。。。

ウィキペディアによると、

人間の人間に対する無理解と不寛容の直接的表現として、リアルな暴力描写が重要な位置を占める

のだそうです。

その映画における業績は、多岐に渡りますが、







ジョディー・フォスターのキャリアも「タクシー・ドライバー」からでしたね。)

それをいちいち、紹介したいがために、

この記事を書いたのではありません。


日本では、ほとんど話題にならなかったが、

欧米の一部では大論争になり、

今でも、カソリック文化圏では上映禁止になっている(らしい)映画に、

最後の誘惑(The Last Temptation of Christ 1988年)というのがあります。




しばしば、書いていますように、

私は子供の時に、クリスチャンだったので、

キリスト教に関心があるのですが、

無知な日本人として、素直な気持ちでこの映画を観て、

キリストの人間としての苦悩がよく描かれていて、

なぜ、この映画が所謂キリスト教原理主義を激怒させたかが、

最初はよくわかりませんでした。

お話は、十字架に架けられたキリストが、

マグダラのマリアとの結婚から多くの子どもをもうけ、

最期は普通の人間として死ぬという悪魔の誘惑に、

(夢の中で)負けてしまった。

でも、最後には、誘惑に打ち勝つというだけの話なのですが、

猛烈な抗議と暴力的な脅迫・上映妨害が、あったそうです。

なんでも、キリストが恋をすること自体、

とんでもないことらしいことらしいのだそうです。

このあたりの事情は、私にはわかりませんでした。



この話を聞いて思い出されるのは、皆さんはお笑いになるかもしれませんが、






実はキリストである事が、随所に暗示されるのですが、

そのアナキンが、悪魔の誘惑に負けてしまうきっかけは、

母親と、妻という二人の女性の存在でした。。。



ちかく、スコセッシ監督は、

長年構想を温めてきた遠藤周作の「沈黙」の映画化に、着手するそうです。

遠藤周作は、日本人であることと、クリスチャンであることの矛盾を、

作品のテーマにしてきたと言えなくもない作家ですが、

それを、西洋人が映画化すると、

どのような映画になるのか?

楽しみです。


「この国は沼地だ。・・・どんな苗もその沼地に植えられれば、根が腐りはじめる。 葉が黄ばみ枯れていく。我々はこの沼地に基督教という苗を植えてしまった。」
「この国の者たちがあの頃信じたものは我々の神ではない。 彼等の神々だった。 それを私たちは長い長い間知らず、日本人が基督教徒になったと思いこんでいた。」

「彼等が信じていたのは基督教の神ではない。 日本人は今日まで神の概念はもたなかったし、これからももてないだろう。」
「日本人は人間とは全く隔絶した神を考える能力を持っていない。 日本人は人間を超えた存在を考える力をもっていない。」 「日本人は人間を美化したり拡張したものを神とよぶ。 人間とは同じ存在をもつものを神とよぶ。 だがそれは教会の神ではない」

(「沈黙」より)



アンダンテさんのブログより、

TBさせていただきました。

遠藤周作の「沈黙」については、

そちらが、大変詳しいです。