岸田秀・「私の原点」

岸田秀・「わたしの原点」

前回の記事(http://blogs.yahoo.co.jp/abc41262001/27962449.html)のコメントで、
「わたしの原点」というのが、どんな文章が知りたいとおっしゃられる方が多かったので、
少し長くなりますが、さわりの部分を転載させてもらいます。
岸田秀のお母さんについての情報を書いていないので、
判断が難しいとは思いますが、感想があれば、お願いいたします。



それからわたしは、以前よりいささか体系的、計画的に精神分析を研究し始め、それをもとに本格的にに自己分析に取りかかった。幻覚はとっくになくなっていたが、強迫症状と憂鬱の発作はまだつづいていた。それまでわたしは、そうした症状からむしろ逃げ気味で、もっぱら抑えにかかっていた。精神分析の本を読み、その理論は学んでも、それを自分の問題とは表面的にしか結びつけなかった。親子関係の問題は親子関係の問題として悩み、それとは別のところで、強迫症状に苦しんでいた。強迫症状は、長い年月のあいだにいろいろなものが現れたけれども、最後には「本を読んではいけない」という強迫的禁止一本にしぼられていた。そのたびになぜこの本を読んではいけないかのもっともらしい理由がくっついているのであった。しかし、ある日ふと、この強迫的禁止はわたしが自分とは無縁の世界の人間となるのを望まなかった母の声がわたしの心に内在化されたものではないかと気づいたとたん、あれほどまで頑強だった強迫症状がまるで嘘のように消えてしまった。これは、いったん気づいてみれば、なぜこれまでこんな事に気づかなかったのかが不思議なほど簡単な事であった。だが、これに気づき得るためには、その前にまず、母と私との関係の徹底的分析が必要であった。それがなされていないうちは、たとえ他人からそういうことを示唆されたとしても、受けつけなかったであろう。つまり、あれほどわたしを可愛がった(たとえば、大学の休暇で帰省すると、母はわたしのために山海のご馳走をつくり、自分はお茶漬けですましているのであった)あの母の愛情の欺瞞性、わたしをとりこにしようとした(母自身、無意識的な)その手の内が読めてきたということであった。いいかえれば、わたしが母について抱いているイメージ、私の母親像は、わたしの自発的、主体的判断にもとづいて形成されたものではなく、母がわたしを支配し、利用するためにわたしに植えつけたものであることがわかってきたのであった。わたしは、母が二十年の歳月をかけてわたしの心の襞の奥深く植えつけたこのイメージとそれを支える諸概念の体系を一つ一つ論理的反証を加えながら丹念に引き剥がしていった。すると、やさしく献身的、自己犠牲的で、どんな苦労もいとわず、何の報いも求めず、ただひたすら私を愛してくれた母と言うイメージの背後から、ただひたすらおのれのために、わたしがどれほど苦しもうが一切気にせず、あらゆる情緒的圧迫と術策を使ってわたしを利用しやすい存在に仕立てあげようとしてきた母の姿が浮かびあがってきた。母のこの姿こそ、わたしの場合「抑圧された真実」であり、わたしが神経症という代価を払って否認し続けてきたところのものであった。そしてそれと同時に、あれほどまでに母を愛し、慕ってきた感情の厚いメッキがはがれて、その母はすでになく、もう一度殺すわけにもいかず、私は晴らしようのないこの憎悪を持て余した。かつて死に目にも会えず母が急死したとき、何も親孝行をしてあげられないうちに死なれてしまったと、葬式のあいだ中、相手かまわず取りすがって嘆いたわたしが、今、ある夜更けに一人、自分の部屋でアルバムから母の写真をすべてはがし、恨みをこめて引き裂き、灰皿のなかで燃やし続けていた。
岸田秀『ものぐさ精神分析』 「わたしの原点」より)

※赤字は、猫雄が付け加えました。