私が「非国民」である事についての弁明

私が「非国民」である事についての弁明

 

 
いつも、親しくしていただいているおじゃま犬さんのブログで、
例によってユニークなコメント
を私がすると、
リコメで、おじゃま犬さんが、
 
猫さんは戦争中だったら、非国民として憲兵につかまっていただろう。
 
という趣旨のコメントをされたのが、大変印象に残りました。
勿論、おじゃま犬さんは半ば冗談で、こう書かれたのですが、
私には、これ、思い当るところがあるんですよ。

私が、子どもの時に文学少年であった事は度々このブログで言及していますが、
中学生の時に読んだ夏目漱石吾輩は猫であるのなかで、
大変私の心を捕えた詩(?)に出会いました。
以下、引用させていただきます。
 
大和魂!と叫んで日本人が肺病やみの様な咳をした。大和魂!と新聞屋が云ふ。大和魂!とスリが云ふ。大和魂が一躍して海を渡つた。英国で大和魂の演説をする。独逸で大和魂の芝居をする。東郷大将が大和魂を有つて居る。[中略]詐欺師、山師、人殺しも大和魂を有つて居る。大和魂はどんなものかと聞いたら、大和魂さと答へて行き過ぎた。五六間行つてからエヘンと云う声が聞こえた。三角なものが大和魂か、四角なものが大和魂か。大和魂は名前の示す如く魂である。魂であるから常にふらふらして居る。誰も口にせぬものはないが、誰も見たものはない。誰も聞いた事はあるが。誰も遭った事がない。大和魂はそれ天狗の類か。
 
大変気に入ったので、クラスでみんなが回覧するノートにこの短文を掲載したところ、
担任の先生が大変呆れていた事を思い出します

それから、時代は移って数十年。
以前、このブログで、私が「世間とは何か」と云う本にたまたま出会い、
実はこの本の中で、
私の心を捕えた↑の短文が引用されているのを発見したときには、
何か運命の様なものを感じました。
以下、今度は、「世間とは何か」阿部謹也著 講談社新書)から引用させていただきます。
 
この話が進行していたのはいわゆる日露戦争の時である。東洋の一小国が大国のロシアと戦った訳であるから巷間ではしばしば大和魂がうたわれていた。そこで主人公は次のような短文を作って朗読してみせた。
(先ほどの短文)
当時の日本人が皆日露戦争の行方に関心を寄せ、他に頼るものがない小国のよりどころとして大和魂にすがろうとしていた時、主人公はそれを揶揄しているのである。その後の第二次世界大戦のときにも再び繰り返された大和魂の神話を思い起こす時、この先生の「世間知らず」にはある意味がある事に気付くのである。
 
※これは、漱石の「吾輩は猫である」について論じた文章です。
 
漱石が、小説三四郎の中で、
大日本帝国が滅んでしまう「予言」していた事は有名ですが、
漱石には、当時から「非国民」としての視点があった。
「私の個人主義と云う講演は秀逸です。)
だから、自身の死後、数十年後に遭遇するであろうこの国の未曽有の悲劇が見通せたのではないか?

そんでもって、何が言いたいって?
「空気を読む」事も、処世術としては大事かもしれません。
でも、この集団的な思考を持つ国民の中で生きていく時、
たまには、「非国民」の視点も大事なんじゃないのでしょうか?
たとえ、みんなを白けさせる事になっても。.。。