スノビズムとしての日本文化

スノビズムとしての日本文化

常日頃から、私の物の考え方や、屁理屈に、奇異の念を抱いておられる方も、多いと思います。
それで、私の物の考え方に深い影響を与えたフランスの哲学者アレクサンドル・コジェーヴの日本印象記を以下に掲載したいと思います。
佐々木孝次著『甦るフロイト思想』(講談社現代新書)からの、孫引きです。
 
西洋人が日本をどう見たかについて、何も、すべてが正しいとか、有難がる必要とかはないとは思いますが、
私には、物事の本質を鋭く突いている文章だと思えるので、長文ながら紹介いたします。
そう云う事に関心がない人、なんのこっちゃわからない人は、スルーしていただいて結構です。
タイピングの練習にもなりますので。。。
(以下、赤字は猫さん)

 さて、アメリカ(合衆国)とソ連を(1948年から1958年の間に)比較しながら旅行しているうちに、私は次のような印象を持った。アメリカ人が豊かになった中国ーソ連人のように見えるのは、ロシア人や中国人が、急速に豊かになりつつあるが、今のところまだ貧乏なアメリカ人にすぎないからである。そこで、私は次のように結論せざるを得なくなった。すなわち、<アメリカ式生活法(American way of life)>は、ポスト・歴史時代に特有の生活様式であって、<世界>におけるアメリカの今日の現在は、人類全体の将来の《永遠なる現在》を先取りしたものである、と。それゆえ、<人間>の動物への回帰は、もはや来るべき可能性ではなく、すでに現実となった確実性である。
 私がこの点について根本的に意見を改めたのは、最近になって日本を旅行して(1959年)からである。私は、そこでこの領域における唯一の<社会>を見る事が出来た。
なぜなら、それは《歴史の終焉》の時代を、すなわち(平民出の秀吉による《封建制度》の整備と、武家出身の後継者家康によって発案され、実現された鎖国以後)いっさいの内戦や外国との戦争のない、ほぼ三百年にわたる生活を体験した唯一の社会だからである。そこで、日本人貴族の生活は、(決闘においてさえ)その生命を危険にさらすことがなくなり、だからといって労働を始めたわけでもなく、まさしく動物である以外の何物でもなかったのである。
《ポスト・歴史的》な日本の文明は、《アメリカの道》とは正反対の道に入って行った。おそらく、日本においては、言葉の《ヨーロッパ的》な、あるいは《歴史的》な意味における<宗教>も<道徳>も<政治>も存在しない。そのかわり、純粋な状態における<スノビズム>が、そこにおいて《自然的》ないし《動物的》与件を否定する諸規律を創造した。しかもそれらは、その効力において、日本や他の場所において《歴史的》<行為>から、つまり戦闘的、革命的闘争から、あるいは強制<労働>から生まれる規律をはるかに凌いでいる。たしかに、能や茶道や華道といった、特別に日本的なスノビズムの頂点(どこにも比べるものがない)は、現在でも貴族や金持ちの専有物になっている。しかし、執拗に続く経済的、社会的不平等にもかかわらず、すべての日本人は例外なく、全体的に形式化された価値、つまり《歴史的》な意味におけるあらゆる《人間的》内容を完全に失った価値に基づいた生活の中で現実に生きている。それゆえ、究極的に、すべての日本人は、純粋なスノビズムのために完全に《無償な》自殺(昔の武士の刀は、飛行機や魚雷にかわったが)を行うことが原則的に可能である。しかし、このような自殺は、社会的、政治的な内容を備えた《歴史的》価値のもとに行われる<闘争>において生命を賭ける事と何の関係もない。。。。
(『ヘーゲル読解入門』の第二版より)
 
ちなみに、英和辞書で、snobを引いてみると、その意味は、
1.スノッブ、俗物(上流気取りで地位・財産などを崇拝し、上に媚び、下に横柄な人)
2.(自分の愛好する学芸・趣味などを至上のものと考え鼻にかける)えせインテリ、通ぶる人
とありました。
私も、snobかな?