「羅生門」・その1

羅生門」・その1


 
(1950年)
クロサワ映画ファンを自認していながら正直に白状しますと、
このあまりに有名な黒澤明監督の代表作を、今回初めて鑑賞いたしました。
私は、どうも「代表作」「名作」と言われると構えてしまうところがあって、
太宰治はその作品の殆どを読んでいますが「斜陽」は未読ですし、
ドストエフスキーはマイナーな作品から読み進めて、
名作カラマーゾフの兄弟に到達したのは割と最近でした。
ですから、
大袈裟な言い方をすれば「世界の映画の歴史を変えた」と噂されるこの作品も、
随分観るのに躊躇しました。
しかし、正月休みで時間があったので、
覚悟を決めて、初挑戦してみました。
 
結論から言えば、観てよかったです。
この映画が世界中の人々に与えた衝撃は、今なお色褪せていないと思われます。
英語圏では、
知識階級の人々の間ではrasyomonと言えばそのまま意味が通じるらしいですね。
(反証があれば、コメントしてくださいませ。)
ドナルド・リチーは、この映画が西欧で高く評価されたことを、
次のように分析しています。
 
しかし、次のように考える余地はあるだろう。いわく、西欧で「羅生門」が好まれるのは、この映画の思考形式が≪西欧的≫だからだと。ここで西欧的と言うのは分析的で論理的で思索的だという事であり、これは日本的思考形式にはあまり見られぬプロセスであるということである。実際にこういう説を出した批評家は何人かはいた。「羅生門」が皆の信じる事実と言う概念に疑問を投げかけている点に着目して、この考え方は日本的ではないと言ったのである。ある意味、この批評家は正しい。この映画の監督は日本的な思考形式の枠の中にはいない。もっと広い世界に属しているのだ。「羅生門」は世界の誰にでも語りかけるーまさしく日本人以外の誰にでも。
ドナルド・リチー著「黒澤明の映画」より)

映画を観たことがない人には、なんのことやらわからないと思います。
この映画に関しては、いろいろと書きたいことがあります。
話がかなり前後しています。
一度に書けませんので分けて記事にいたします。
お暇な方は、お付き合いくださいませ。