「野茂、死ぬまで投げるな!」(NYタイムズの社説より)

「野茂、死ぬまで投げるな!」(NYタイムズの社説より)



こう見えても、日本のプロ野球は若い頃は結構好きで、
TV中継(圧倒的に巨人戦が多かったけれど)なんかも昔はよく観戦しておりました。
高校野球の方は、子供のころは夢中になった記憶がありましたが、
甲子園球場にも観戦に行きました。
しかし、段々大人になるにつれて、その裏側が見えてきて、
ある時点を境に高校野球は大嫌いになりました。
日本文学研究家ドナルド・キーンさんは、
高校野球の季節になると、
日本の新聞を読むのが嫌になると書いておられましたが、
私もまったく同感。
やれ「球児たちの青春」だとかなんとか、紋切り言葉ばかりの羅列で、
ウンザリ致します。
本当は、プロ野球の予備校みたいなものでしょ?
何でもかんでも「青春」「青春」は止めてほしい。
 

 
 
日本のプロ野球の方も、
野茂英雄が大リーグに行ってしまってから、
とんと興味が無くなりました。
一流選手はみんなアメリカに行くから、
まるで日本のプロ野球
メジャーリーグの二軍みたいになってしまったような気がしてしまう。
(話はそれますが、私はかねがね何で日本人メジャー挑戦のパイオニアである野茂英雄
どうして国民栄誉賞をあげなかったのか、強い不満を抱いていたのですが、
最近知ったところでは、そういう話はあったのに本人が辞退したそうです。流石は野茂ですね。)
 
こういう訳ですから、
私の日本の野球に関する知識は、はなはだ心もとないのですが、
最近話題になっている高校野球での投手の球の投げ過ぎについて、
一言申したい。
こういう記事があります。
 
 
あの炎天下での、ピッチャーの連投、連投には、
見ていて可哀そうな処がありますよね。
甲子園で優勝投手になって、プロに入って故障した選手は数知れません。
あの松坂大輔も、もし甲子園とWBCであれだけ投げることがなかったら、
今でもメジャーで大活躍していたに違いない。
今日の哀れな姿は見るに忍びない。
こういう児童虐待を許す日本の風土の中には、
 
「集団の利益のためには、個人は犠牲になるべきだ。」
 
と言う考え方があるのでしょう。
甲子園でエースピッチャーの連投を許す背景には、
何が何でも、母校を勝利させたいという周囲の圧力があるに違いない。
古くは旧日本軍の悪名高い「神風特攻隊」から、
今日でも見られるサラリーマンの過労死まで、
その「玉砕思想」は脈々と受け継がれております。
厚生省の役人でありながら、
お役所の保守的な体質を批判した精神科医宮本政於と言う方は、
日本人の中には、「才能のある人間は才能のない人間のことを思って、
犠牲になるべきだ。」と言う思想があると指摘されております。

何とかして、高校野球での一部投手の連投を、
止めさせる方向には持っていけないのでしょうか?
目先の勝利よりも、
個人の才能を大事に育てていく社会に変えていくことはできないのでしょうか?
これは、決して野球に限った問題ではないです。
個性豊かな人々が沢山いる社会になってほしい。
深夜に、ふとそう思いました。