「悪い奴ほどよく眠る」

誰も、クロサワ映画のレビューをしないので、一人淋しくUPします。
いいですね、この映画の題名!
 

「悪い奴ほどよく眠る」


(1960年)
 
あらすじ
日本未利用土地開発公団の副総裁岩淵の娘佳子と、秘書の西幸一の結婚式は、異様な舞囲気に満ちていた。政界、財界の名士を集めた披露宴が始まろうとする時、公団の課長補佐和田が、のりこんだ捜査二課の刑事に連れ去られた。押しかけた新聞記者たちは、五年前、一課長補佐が自殺しただけでうやむやのうちに終った庁舎新築にからまる不正入札事件に、やはり現公団の副総裁岩淵と管理部長の守山、契約課長の白井が関係していたことを思いだした。ウェディング・ケーキが運ばれてきた。それは、五年前の汚職の舞台となった新築庁舎の型をしていた。しかも、自殺者が飛び降りた七階の窓には、真赤なバラが一輪突きささっていた。その頃、検察当局には差出人不明の的確な密告状が連日のように舞いこんでいた。そのため、開発公団と大竜建設の三十億円にのぼる贈収賄事件も摘発寸前にあった。。。
 
ゴッドファーザー(1972年)の元ネタという噂の高いこの映画、
実は私、今回初めて見ました。
確かに結婚式から始まる物語といい、副総裁の家族関係といい、
明らかに、ゴッドファーザーがこの映画から拝借した部分は大きいでしょう。
しかし、F.F.コッポラ黒澤明への尊敬を公言している以上、
「盗作」とは言わずに、「オマージュ」と言う事にしましょう。
 

 
「この作品は、撮っている最中からこれはうまく行かなかったなとわかっていた。なぜかというと、徹底的にえぐり出せなかったからだ。ラストの副総裁のところへ電話が来るシーンね。あれ、そこまでに同じ人物から何回もかかって来てるわけだ。だれか、日本政府の高官なんだ。そいつを暗示はしているがハッキリ言いきってはいない。電話の向こうがわにはもっと悪い奴がいるんだ。だけど日本ではそれをガムシャラに突いていくと、思わぬところに思わぬ反作用を起こすことがわかったんだよ。ショックだったな。僕がもっとガムシャラにやれれば、もっといい映画になったろう。もっと突いてみなかったのは、何と言われても、よくなかった。アメリカみたいな大きな国だったらねえ。。。でも日本じゃそう自由にできない。それは何と言ってもさびしいことだと思うね。(黒沢氏談)」
                                            (ドナルト・リチー著『黒澤明の映画』より)
 
どこで読んだか忘れましたが、初期の脚本では、
「電話の向こうがわの悪い奴」が誰だかわかるようになっていたそうですが、
「当局」から映画会社に圧力がかかって、大幅に脚本が書き直されたそうです。
という事は、現実にあった事件を取材したものなのでしょうか?
あるいは、晩年の黒澤明が日本で冷遇されたのは、
こういった権力と戦う姿勢を若いころから貫いたからかもしれません。
(それにしても、「週刊新潮」の黒澤氏に対する中傷はひどかった。)
 
五十年前に作られたこの映画ですが、映画の内容を観ると、
この五十年間に社会が何も進歩していない事がよくわかります。
三島由紀夫黒澤明の道徳主義は中学生並みだ。」と嘲笑しました。
けれど、ここまで社会の悪を生真面目に追求しようとする姿勢をみると、
小沢一郎は偉い」と思うおっさんになった猫さん
でも、
何か清々しいものを感じます。
初期から中期にかけての黒澤作品には、
この種の清潔なヒューマニズムが随所に見られますね。
大正デモクラシーの影響でしょうか?
主人公の西(三船敏郎)が、高校生の時に学徒動員で働かされ、
米軍の空襲で廃墟と化した軍需工場に、汚職した公務員を幽閉するシーンは、
戦後15年、戦前と何も変わらない権力の腐敗構造に対する、
黒澤氏の怒りが生み出したのかもしれません。
現在なら、西と結婚する佳子(香川京子)は足が少し悪いだけで、
こんなにまで卑屈になる必要はないと思うのですが、
黒澤氏好みのとても清楚で上品な女性を演じていました。
やはり、モノクロ時代の黒澤作品は、どれも粒ぞろいです。