「羅生門」・その2(年長者用改訂版)

羅生門」・その2(年長者用改訂版)

人の心は、「藪の中」
 

多襄丸(三船敏郎)真砂(京マチ子)のキスシーン
 
 製作開始段階以前の作業はそれまでの機会ごとになしくずしにすすんでいたので、羅生門の撮影期間は異例に短く、2~3週間であがり、黒澤作品としては珍しくも予算は超過しなかった。こりゃ何の映画かさっぱりわからんとは大声で公言したものの、しかしながら大映もこの映画には多少のの配慮をしてくれた。。。そして、羅生門も、二番館から三番館の上映が終わると、そのまま棚にしまいこんでしまった。もし万一その後になってから偶然の事から最高に有名な日本映画にならなかったらこの映画のプリントは、今でもその棚の上で埃だらけのまま眠っていたに違いない。
 事件と言うのは、ヴェネチア国際映画祭が日本に出品招待状を送ってきたことであった。国際映画祭とは一体何か、日本もそのころはまださっぱりはわかっていなかった。何を送っていいのやら、テンヤワンヤの騒ぎとなったが、羅生門は思いつかれもしなかった。そうこうしているところで、当時の日本のイタリアフィルム社長ジュリアーナ・ストラミジョリ女史がヴェネチアから依頼を受け、候補作品を探し始めた。何十本と観ているうちに彼女は羅生門にぶつかり、これが大変気に入った。しかし彼女がこの映画を推薦したところ、大変な反対の声が巻き起こった。その主なものは大映からのもので、大映はこの映画に入賞の希望も持っていなかったし、作品の質に対する信念もなかったのだ。大映が1951年のヴェネチア国際映画祭羅生門を出品するのに同意したのは、実にいやいやながらの上にもいやいやながらの事であった。-ところが、それがグランプリを獲得した・・・(ドナルド・リチー著「黒澤明の映画」より)
 
本作の完成時、世間の評価もぱっとせず、大映社長(当時)の永田雅一も、「この映画はわけがわからん」と批判していた。しかしながら本作がヴェネツィアに出品されてグランプリを受賞すると、永田は一転してこれを自分の手柄のように語った。黒澤は後年、このことを回想し、まるで羅生門の映画そのものだ、と表している。(wikiより)
 
映画評論家の大半も羅生門を評価しなかったにもかかわらず、ベネチア映画祭でグランプリ、米アカデミー特別賞(最優秀外国語映画賞)を受賞したとたん、手の平を返したように絶賛し始めました。こういう人種は私は好きにはなれません。(「懐かしの映画館・近松座」より)
 
「実は僕、あの映画がヴェネチアへ送られたことも知らなかったんですよ。あれを向こうに送ってくれたのは、本当にイタリアフィルムのジュリアーナ・ストラミジョリさんの功績です。受賞祝賀会の時にも僕は言ったのだけどね、日本映画を一番軽蔑していたのは日本人だった、その映画を外国に出してくれたのは外国人であった。これは反省する必要はないか、と思うのだな。浮世絵だって外国に出るまではほんとに市井の絵に過ぎなったよね。われわれ、自分のものにしても、すべて卑下して考えすぎるところがあるんじゃないかな?」(黒澤氏談)