幻の寝屋川球場

幻の寝屋川球場

寝屋川市を、ガラの悪い犯罪者の町だとばかり考えてはいけません。







寝屋川球場跡

京阪電車開通(明治43年)後の大正11年4月、京阪電車の手で、ここ旧豊野村秦に京阪グランドが建設され陸上競技で数々の日本記録を生みました。全国的な野球熱の高まりで、同年8月、その一角に野球場が設けられました。甲子園球場ができるまでは日本一の規模を誇りました。この球場で全国中等学校野球大会の大阪予選などの熱戦が展開されました。

なんと、寝屋川市にかつては日本一の野球場があったんです


何分大昔の話なので、ネットで調べてもほとんど資料が出てこない。以前に、TV番組で紹介されたことがあるらしくて、その時の写真をパクリます。



以下、Wikiよりこれまたパクリ。

野球場は大学や実業団(京阪自身もチームを保有していた)の公式戦や練習戦に使用された[2]1923年11月には、日本最初のプロ野球団である芝浦協会が実業団の大毎野球団と対戦した試合も行われている。1924年からは全国中等学校優勝野球大会大阪大会の会場ともなっている。しかし、同年に本格的な設備を備えた阪神甲子園球場が完成すると、京阪は球場のあり方を真剣に検討せざるを得なくなった。
その中で、京阪グラウンド球場を改装の上で、この年から始まった選抜中等学校野球大会を誘致する計画が持ち上がった。京阪は大会を主催する大阪毎日新聞(以下、大毎と略記)に計画を持ち込んだところ、大毎側も乗り気で大いに協力するという反応を得る。京阪は改装の参考として、新京阪線の京都地下線建設に関する調査のために渡米した大林組の技術者に、ヤンキー・スタジアムなど米国の球場施設の調査を依頼した。帰国した技術者から提供された写真や資料をもとに、大毎とも協議して、改装の設計図を作成した。この設計図を見た社長の太田光凞や運輸課長は賛意を示し、京阪・大毎両社の首脳が正式に会談する運びとなる[3]。大毎側は球場の完成に協力し、完成後は選抜大会を開催することで合意した。さらに、京阪グラウンドにスポーツ指導者の養成施設を設ける将来構想も両者間で示された。
しかし、運輸課から「春は行楽客の輸送で手一杯であり、新たに車両を増やさなければ責任ある輸送はできない」との見解が示された。本格的な球場への改装についても、運輸本業での建物拡張がたけなわという状況があった。太田社長は球場整備案と車両建造案とを合わせて役員会に諮ったが、経費の点で反対意見が強く、球場整備だけでは輸送確保に支障を生じることから、当面拡充整備は見送ることとなった。その後京阪は新京阪鉄道をはじめとする鉄道業での過剰投資を回収できないまま昭和恐慌に見舞われてその後処理に追われることとなり、改装計画も日の目を見ることはなかった。。。(中略)
その後、1936年に現在のプロ野球が誕生した時期には、京阪は上記の昭和恐慌の後処理からようやく立ち直ったばかりであった。また、折しも「従来の多角的な営業方針から運輸一本に主力を置く堅実な営業方針に転換した」時期でもあり、プロ野球には進出しなかった[7]

私は、在阪鉄道会社の中で、京阪電鉄だけがプロ野球球団を持った経験がない事が不思議だったんですが、こういう経緯があったんですね。



もし、京阪電鉄プロ野球の球団を持っていたら。。。
それよりも、寝屋川球場が改装されていたら。。。

球団名は京阪ジャガーズなんてね^^(なんか弱そう。
寝屋川の町は、今と違ったものになっていたでしょう。
それがいいことだったか、悪いことだったかは、わかりませんが。